プラトン(Πλάτων, 前427頃–前347)の『クラテュロス』は、ただ一つの問いをめぐる対話篇である——ものの名前には「正しさ」があるのか。この問いは、ギリシア語で「名前の正しさ(ὀνόματος ὀρθότης)」と呼ばれる。ソクラテスより80年ほど前、フンボルトより2200年前、ソシュールより2300年前。西洋にまとまった言語哲学があるとすれば、その出発点はここだ。
登場人物は三人。ヘルモゲネスは、名前は取り決めにすぎないと考える。クラテュロスは、名前は自然によって定まっていると考える。そして両者のあいだに立つソクラテスは、どちらにもそのままは与しない。対話は行き詰まったヘルモゲネスとクラテュロスの議論に、ソクラテスが呼び込まれる場面から始まる。
1. 二つの立場——フュシスかノモスか
クラテュロスの主張は、対話の冒頭でヘルモゲネスの口から紹介される。
ὀνόματος ὀρθότητα εἶναι ἑκάστῳ τῶν ὄντων φύσει πεφυκυῖαν (There is a correctness of name that belongs to each thing by nature. ギリシア語引用の日本語訳・英訳は L/LAB による。以下同じ。)
名前の正しさは、存在するもの一つ一つに、自然によって具わっている。
ヘルモゲネスはこれを認められない。彼にとって、名前の正しさとは「取り決めと合意(συνθήκη καὶ ὁμολογία)」でしかない。
οὐ γὰρ φύσει ἑκάστῳ πεφυκέναι ὄνομα οὐδὲν οὐδενί, ἀλλὰ νόμῳ καὶ ἔθει τῶν ἐθισάντων τε καὶ καλούντων. (No name belongs to anything by nature, but by law and by the habit of those who establish the usage and call things by it.)
どんな名も、何かに自然によって具わっているのではない。それを習わしとし、そう呼ぶ人々の、掟と慣れによるのだ。
2. 対話の三つの部分
ソクラテスはまずヘルモゲネスの相対主義を崩す。ものにはそれ自身の在りかた(οὐσία)があり、行為には正しいやり方がある。ならば「名づける」という行為にも正しいやり方があるはずだ(記事 037)。そこから彼は、名前は道具であるという見方を組み立て、その道具を作る「立法者(νομοθέτης)」と、それを使い判定する「弁証家(διαλεκτικός)」を分ける(記事 038)。
対話の中央では、ソクラテスは神々・徳・自然物の名を次々に語源分解してみせる。その多くが「流れ」「運動」を意味に含む——最初の名づけ手たちが、万物流転というヘラクレイトス的な世界観を名前に埋め込んだ、というのだ(記事 039)。さらに、それ以上分解できない「一次の名」は、対象を声で真似たものだとされる。ρ は運動、λ はなめらかさ——西洋で最初の音象徴論である(記事 040)。
3. 結末——名前は真理の入口ではない
最後にソクラテスは、傾きかけた自然説そのものに切り込む。最初に名をつけた者が世界を取り違えていたら、その名に従う私たちも欺かれる。そもそも一次の名がまだ無かった時点で、名づけ手はどうやってものを知ったのか。だから「ものは名前からではなく、むしろものそれ自体から学び、探究すべきだ」——知識は名前の手前になければならない(記事 041)。
οὐκ ἐξ ὀνομάτων ἀλλὰ πολὺ μᾶλλον αὐτὰ ἐξ αὑτῶν καὶ μαθητέον καὶ ζητητέον (Things must be learned and sought out not from names but far rather from themselves.)
名前からではなく、むしろものそれ自体から、学びもし探しもしなければならない。
そして対話は、万物が流れるなら知識も成り立たない、と論じて閉じる。「美そのもの」は、私たちが語っているあいだにも別のものになってしまうようでは、そもそも「それ」と呼べない。ここに、変わらぬイデアへ向かうプラトンの一歩がある。
まとめ
| 論点 | 『クラテュロス』での姿 |
|---|---|
| 名前の正しさは自然か取り決めか | クラテュロス=フュシス、ヘルモゲネス=ノモス、ソクラテスは両方を要求 |
| 名前とは何か | ものの在りかたを「分ける」ための道具(ὄργανον)。梭(ひ)にたとえられる |
| 誰が名を作るか | 立法者(νομοθέτης)。それを監督するのは弁証家 |
| 語源が語ること | 最初の名づけ手たちの世界観(多くは「流転」)が名に化石化している |
| 一次の名の仕組み | 文字の音による対象の模倣(ρ=運動、λ=なめらかさ) |
| 対話の結論 | 名から真理は学べない。知は「ものそれ自体」にあり、それは変わらない |
なぜ今も読まれるか
- 記号の恣意性の原型——フュシス対ノモスの軸は、そのままソシュールの「記号の恣意性」に受け継がれる。ヘルモゲネスの立場は、2300年後の近代言語学の前提になった。
- 音象徴論の起点——「ρ は運動を表す」というソクラテスの議論は、現代の音象徴(ブーバ/キキ効果など)研究の遠い祖先であり、同時にソシュールが否定した相手でもある。
- 言語と世界観——名前が理論を宿すという考えは、フンボルトの「言語=世界観」やサピア=ウォーフの言語相対論を先取りしている。
- 「意味とは使用」への長い前史——名前と対象の関係を問うこの対話は、ウィトゲンシュタインが「語の意味は指し示す対象ではなく使用だ」と言うまで、形を変えて続く問題の起点である。