対話の後半で相手をつとめるのはクラテュロスだ。彼は自然説を強く押す——名前はすべて正しく定められており、「誤った名前」などない、と。ソクラテスはここから、傾きかけた自然説そのものを崩しにかかる。

まず、取り決めが戻ってくる

(εἰκών)は、対象のすべてを写しとってはならない。全部を写せば、それは像ではなくもう一つの本体になってしまう。だから名前も、「正しい」文字をすべて備えている必要はない。不完全な名前も名前でありうる——この一歩で、取り決めが議論に戻る。

決め手は「硬い(σκληρόν)」という語だ。この語には λ が入っている。音象徴の理屈では λ は「なめらかさ」、正反対だ。それでも私たちは通じ合う。クラテュロスは「慣れ(ἔθος)のおかげだ」と言う。ソクラテスは切り返す。

ἔθος δὲ λέγων οἴει τι διάφορον λέγειν συνθήκης; (When you say “habit,” do you think you are saying something different from convention? ギリシア語引用の日本語訳・英訳は L/LAB による。以下同じ。)

「慣れ」と言うとき、君は「取り決め」とは別のことを言っているつもりなのか。

数字の名前も同じだ。一つ一つの数に「似た」名を与えることなど、取り決めの力を借りなければできない。ソクラテスは折り合う——できるかぎり似せる、しかし「この俗っぽいもの、取り決め」も使わざるをえない、と。

核心——最初の名づけ手には手本がなかった

クラテュロスの前提:「名前を知る者は、ものを知る」 = ものは名前を通じてしか学べない(435d) × 事実:最初に名前を定めた者には、手本にする名前がまだ無かった = 彼はどうやって、名づけるべきものを知ったのか(438a–b) 結論:ものは名前なしでも学べる。むしろ「ものそれ自体」から学ぶべきだ = 知識は名前の手前にある。名前は知の土台になれない(438e–439b)
『クラテュロス』の決定的な一手。「名前からしか学べない」なら、最初の名づけ手は何も名づけられなかったはずだ。図:L/LAB

クラテュロスは、名前こそ知への道だと主張する。ソクラテスの反論はきわめて単純だ。最初に名前を定めた者には、参照できる名前がまだ一つも無かった。もし「ものは名前からしか学べない」なら、その人はそもそも、名づけるべきものを知りえなかったことになる。

ἔστιν ἄρα, ὡς ἔοικεν, δυνατὸν μαθεῖν ἄνευ ὀνομάτων τὰ ὄντα (It is possible, then, it seems, to learn the things that are without names.)

では、名前なしでも、存在するものを学ぶことはできる、ということになる。

しかも、像から学ぶより真実そのものから学ぶほうがよい。名前は対象の像にすぎない。像の出来が良いかどうかは、結局は対象のほうを見て判定するしかない。だから知は名前の手前にある。

そして、変わらぬものへ

知る者 つねに変化 知られるもの つねに変化 つかもうとした瞬間に 両方が別のものになる → 知は成立しない だから「美そのもの」「善そのもの」は、流れの中にはない——変わらぬイデアへ。
反・ヘラクレイトスの論。すべてが流れるなら、知識という営み自体が足場を失う。図:L/LAB

対話の最後で、ソクラテスは「自分がよく夢に見ること」として問う。「美そのもの」「善そのもの」——それぞれ一つのものとして、あるのではないか。

αὐτό … τὸ καλὸν οὐ τοιοῦτον ἀεί ἐστιν οἷόν ἐστιν; (Is not the beautiful itself always such as it is?)

美そのものは、つねにそれがそうであるとおりのものではないのか。

もし美が語っているそばから逃げ去るなら、それを「それ」と呼ぶことも、「こういうものだ」と言うこともできない。さらに、知る者と知られるものが両方とも絶えず変化するなら、知ろうとした瞬間に対象は別物になり、知ることは成り立たない。だから「美」「善」「一つ一つの存在」は、ヘラクレイトス的な流れとは似ていない。ここでプラトンは、変わらぬイデアへと一歩を踏み出す。

対話は決着しない

『クラテュロス』は、どちらの立場にも軍配を上げずに閉じる。名前の正しさが自然か取り決めかは、未決のままだ。だが一つだけ、はっきり封じられたことがある——名前を分析して世界の真理を取り出すという道である。まだ若いクラテュロスに、ソクラテスは言い残す。勇敢に、そしてよく吟味せよ、たやすく受け入れるな、と。

言語の分析から出発したこの対話は、「知は言語の手前にある」という結論で、プラトンのイデア論弁証法へ橋を架ける。名前は世界を映すが、名前は世界ではない——2300年後、ソシュールウィトゲンシュタインも、形を変えてこの問いに立ち返ることになる。