『クラテュロス』の中央部(391–427)は、ソクラテスによる語源分解のカタログである。140ほどの名前が、次々に部品へばらされる。現代の言語学から見れば、その大半は語源として成り立たない。だが、狙いは別のところにある。名前がどんな理論を宿しているのかを、こじあけて見せることだ。
三つの実例
- ゼウス(Ζεύς)。この名はギリシア語で二つの対格をもつ——
ΖῆναとΔία。ソクラテスは両方を語根として使う。Ζῆναは「生きる(ζῆν)」、Δίαは「〜を通じて(διά)」。合わせて「それを通じて、生きとし生けるものがつねに生きる」もの。ゼウスは万物の支配者だから、これほど正しい名はない、と言う。 - 人間(ἄνθρωπος)。「自分が見たものを見上げて省みる者(ἀναθρῶν ἃ ὄπωπεν)」。ほかの動物は見るだけだが、人間は見たものを吟味し、思案する——その特徴を名が写している、という読み。
- 魂(ψυχή)。ソクラテスは「自然を保ち運ぶもの(φύσιν ὀχεῖ καὶ ἔχει)」から
φυσέχη、そこからψυχήへ、と辿る。彼自身「もっともらしく言えばこうだが、本当の語源として言うと滑稽だ」と付け加える。
名前に埋め込まれた世界観
ばらばらに見える語源に、一つの傾向がある。運動と流れだ。ソクラテスの分析では、徳や知にかかわる多くの語が「進む」「流れる」「回る」を語根に持つ。彼はこう総括する。
ὡς ἰόντων ἁπάντων ἀεὶ καὶ ῥεόντων
あたかも万物がつねに進み、流れているかのように。(ギリシア語引用の日本語訳・英訳は L/LAB による。以下同じ。)
つまり最初の名づけ手たちは、ヘラクレイトス的な「万物流転」の世界観を持っていて、それを名前に刻み込んだ——ソクラテスはそう見立てる。名前は、作られた時代の理論の化石なのだ。
ここには仕掛けがある。対話の相手クラテュロスは、歴史上、ヘラクレイトス派の人物だった(アリストテレス『形而上学』によれば、彼は「同じ川には一度も入れない」とまで言い、晩年は言葉を使わず指さすだけになったという)。つまりソクラテスは、名前の中からクラテュロス自身の世界観を読み出してみせ、そのうえで(記事 041)その世界観そのものを批判する。語源部は、後半の反論への長い助走なのだ。
神々の名——ソクラテスの逃げ道
ソクラテスは神々の名を分解する前に、二重の留保を置く。第一に「私たちは神々について何も知らない。神々自身についても、神々が自分をどう呼んでいるのかについても」——真の名を知るのは神々だけだ。第二に、だから私たちは「祈りのときの慣わし」にならって、神々が呼ばれて喜ぶ名で呼ぶほかない。そのうえで彼は、検討の対象を人間がどんな考えで神々に名を与えたかに限定する。「それなら、とがめられまい(ἀνεμέσητον)」。神学的な深追いを避けつつ、名前を「人間の思いなしの記録」として読む構えである。
冗談か、本気か
この長い実演をどう読むかで、対話全体の印象が変わる。
- 古代:新プラトン主義者(プロクロスら)は真面目に受け取り、語源に神学的な意味を読み込んだ。ストア派は「エテュモロギア(語源学)」を体系化し、名前に世界の真理が隠れていると考えた。
- 近代の主流:同時代のソフィスト的な語源いじり(プロディコスら)のパロディとみる読み。ソクラテス自身、自分の「知恵」を、朝エウテュプロンから乗り移った突然の霊感のせいにしてみせる。
- 近年の研究:戯画の衣をまといつつ、核には哲学的な主張がある、という読み(セドリーら)。名前は受け継がれた理論の貯蔵庫であり、だからこそ吟味しなければならない。
どの読みを取っても、対話が次に打つ一手は同じだ。もし最初の名づけ手が世界を取り違えていたら?
ὁ θέμενος πρῶτος τὰ ὀνόματα, οἷα ἡγεῖτο εἶναι τὰ πράγματα, τοιαῦτα ἐτίθετο καὶ τὰ ὀνόματα
最初に名前を定めた者は、ものごとをこうだと思ったとおりに、名前もそう定めた。
その思い込みが誤りなら、名前に従う私たちも同じ誤りへ導かれる。語源が世界観を語ること自体は、その世界観の正しさを何も保証しない——この気づきが、記事 041の批判へつながる。