ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(Wilhelm von Humboldt, 1767–1835)は、プロイセンの外交官・教育改革者で、ベルリン大学(現フンボルト大学)の設立者。博物学者アレクサンダー・フォン・フンボルトの兄である。公職を退いた晩年、彼はジャワ島の古語カヴィ語の研究に打ち込み、その三巻本の序説として一篇の論考を書いた。序説は独立した一冊に育ち、死の翌年、弟の手で刊行された——『人間の言語構造の多様性と、それが人類の精神的発展におよぼす影響について』(1836)。
体系的な教科書ではない。節ごとに主題が変わり、長い一文が畳みかける、密度の高いエッセイである。だが、後の一般言語学が立てる問いのほとんどが、すでにここにある。ソシュール『講義』(1916)より80年、サピア『言語』(1921)より85年早い。
1. 言語は「作品(エルゴン)」ではなく「活動(エネルゲイア)」である
Die Sprache, in ihrem wirklichen Wesen aufgefasst, ist etwas beständig und in jedem Augenblicke Vorübergehendes. … Sie selbst ist kein Werk (Ergon), sondern eine Thätigkeit (Energeia). (Language, grasped in its true essence, is something continually and at every moment transient. … It is itself no product (ergon) but an activity (energeia). ドイツ語引用の日本語訳・英訳は L/LAB による。以下同じ。)
言語は、その本当の本質において捉えれば、絶えず、どの瞬間にも過ぎ去っていくものである。……言語それ自体は作品(エルゴン)ではなく、活動(エネルゲイア)である。
だから「言語の真の定義は、発生的なもの(genetisch)でしかありえない」。辞書に並ぶ語や文法書の規則は、生きた言語の「死んだ堆積物」にすぎない。実在するのは、話し手がそのつど規則を使って文を産み出すその行為だ。この一点が、20世紀のチョムスキー(言語能力=生成の規則系)にまで響く。
2. 内的言語形式——言語の「かたち」とは何か
言語の「かたち(Form)」とは何か。フンボルトによれば、それは音でも活用表でもない。「言語において恒常的なもの」——ある言語が、思考を音声へと変換するときの、その言語に固有で、一定した、特徴的なやり方である。それは「事実的で個別的なもの」ではなく、「言語能力の純粋な働きかけ」だ。のちにハイマン・シュタインタールらがこれを「内的言語形式(innere Sprachform)」という術語に整える。音と意味という「素材」は人類に共通でも、その素材を切り分ける「形式」が、言語ごとに、そして民族ごとに異なる。
3. 各言語は一つの「世界観(Weltansicht)」である
Jede Sprache zieht um die Nation, welcher sie angehört, einen Kreis, aus dem es nur insofern hinauszugehen möglich ist, als man zugleich in einen anderen hinübertritt. (Every language draws about the people to whom it belongs a circle, from which one can escape only by stepping over at the same time into the circle of another.)
どの言語も、それが属する民族のまわりに一つの円を描く。その円から出ることは、同時に別の言語の円へ踏み入るかぎりにおいてのみ可能である。
言語は「思考を伝える手段」にとどまらない。「人間は、主として——いや、もっぱら——言語が対象を差し出すとおりに、対象とともに生きている」。だからフンボルトは踏み込む——「言語は、いわば諸民族の精神の外的な現れである。彼らの言語が彼らの精神であり、彼らの精神が彼らの言語である。両者をどれほど同一と考えても、十分ではない」。ここに、のちのサピア=ウォーフ仮説(言語相対論)の源流がある。
4. 「有限の手段の無限の使用」
Sie muss daher von endlichen Mitteln einen unendlichen Gebrauch machen, und vermag dies durch die Identität der Gedanken und Sprache erzeugenden Kraft. (It must therefore make infinite use of finite means, and is able to do so through the identity of the power that generates thought and language.)
それゆえ言語は、有限の手段から無限の使用をなしとげなければならず、思考を産み出す力と言語を産み出す力が同一であることによって、それをなしうる。
限られた音・語・規則から、話し手はこれまで一度も現れなかった文を無限に作り、聞き手はそれを理解する。1966年、ノーム・チョムスキーは『デカルト派言語学』でこの一句を掲げ、フンボルトを生成文法の先駆と呼んだ。「言語の創造的側面(the creative aspect of language use)」という論点である。
5. 言語は思考を形づくる器官であり、対話にのみ宿る
言語と思考は切り離せない。「言語は思考を形づくる器官である(Die Sprache ist das bildende Organ des Gedanken)」。語は「対象そのものの写し」ではなく、「対象が心のなかに産み出した像の写し」だ。思考は言語一般に依存するだけでなく、「一つ一つの特定の言語に」依存する。
そしてその言語は、一人では成り立たない。「すべての語りは対話にもとづく(alles Sprechen ruht auf der Wechselrede)」。「私」という語が可能なのは、すでに「君」が含まれているからだ。言語は個人のものであると同時に、その個人を超えた民族全体のものであり、しかも自ら活動する(selbstthätig)——民族が言語を作ると同時に、言語が民族の精神を形づくる。
6. 言語の類型と、その序列づけ(批判的に)
フンボルトは、言語を構造の型で捉える類型論の先駆でもある。孤立語(中国語)、膠着語、屈折語(サンスクリット)、そして北米先住民語に見られる抱合語。ただし彼は、屈折語を「文法的形式を最も純粋に実現した型」とみなし、暗黙のうちに序列をつけた。この「サンスクリット・ギリシャ語型こそ言語発達の頂点」という見方は、19世紀言語学に深く根を張り、20世紀に入ってサピアが『言語』第6章で明確に否定する——「すべての言語は形式言語である」。フンボルトを読むときは、この序列づけと、その下にある深い直観(形式こそ言語の本質だ)とを、切り分けて読む必要がある。
まとめ
| フンボルトの主張 | キーワード |
|---|---|
| 言語の本体は辞書・文法ではなく、話すという行為の遂行 | エネルゲイア(活動)/エルゴン(作品) |
| 言語の「かたち」は、思考を音にする恒常的なやり方 | 内的言語形式(innere Sprachform) |
| 各言語は民族のまわりに円を描く=一つの世界観 | Weltansicht/言語相対論の源流 |
| 有限の音・語・規則から無限の文を産み出す | 有限の手段の無限の使用 |
| 言語は思考を形づくる器官。対話にのみ宿り、自ら活動する | bildendes Organ/Wechselrede/selbstthätig |
| 言語は構造で類型化できる(ただし屈折語を頂点とする序列は時代の偏り) | 孤立語・膠着語・屈折語・抱合語 |
なぜ今も読まれるか
- 一般言語学の源泉——「言語の本質は形式であって実体ではない」というフンボルトの直観は、シュタイントール、そしてソシュール(langue=社会的形式)へ流れ込む。
- 言語相対論——「言語=世界観」は、サピアとウォーフの言語相対論の直接の祖先。ただしフンボルト自身は、素材(思考の可能性)は人類共通とも考えており、素朴な言語決定論ではない。
- 生成文法——「エネルゲイア」「有限の手段の無限の使用」「言語の創造的側面」を、チョムスキーがフンボルトの名とともに現代へ持ち込んだ。
- 文化と言語——ヴァイスゲルバーの「母語の世界像」、コセリウの言語哲学など、20世紀のドイツ語圏言語思想はフンボルトの注釈という面がある。
同時代以降の三冊——ソシュール『一般言語学講義』、サピア『言語』、ウィトゲンシュタイン——は、いずれもフンボルトが立てた問い(言語と思考、形式と実体、個人と共同体)を、別の道具で引き受け直したものだと読める。