ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein, 1889–1951)が生涯に刊行した哲学書は一冊だけ——『論理哲学論考』(Logisch-Philosophische Abhandlung, 1921)である。75ページほどの、番号のついた命題だけでできた本だ。彼はこの本で「哲学の問題は本質的に最終的に解決した」と考え、哲学を捨てて小学校教師になった。
十年後、彼はケンブリッジに戻り、その本の中心的な考えはまちがっていたと言い出す。1929年から死の年まで書き継がれたノートは、死後『哲学探究』(Philosophische Untersuchungen, 1953)としてまとめられた。前期と後期。同じ主題——言語はどう働くのか、その限界はどこか——に、正反対の答えを出した哲学者。それがウィトゲンシュタインである。
1. 前期:命題は現実の「像」である
『論考』の骨格はこうだ。世界は物ではなく事実からなる(1「世界は、成り立っていることのすべてである」)。言語の側では、命題(Satz / proposition)が事実の像(Bild / picture)である。
Der Satz ist ein Bild der Wirklichkeit. Der Satz ist ein Modell der Wirklichkeit, so wie wir sie uns denken. (A proposition is a picture of reality. A proposition is a model of reality as we imagine it. (4.01))
命題は現実の像である。命題は、私たちが現実を思い描くとおりの、現実のモデルである。(命題 4.01。ドイツ語引用の日本語訳・英訳は L/LAB による。以下同じ)
像が像でありうるのは、像と描かれる対象に「何かが同一でなければならない」からだ(2.161)。その共通するものが論理形式(Form der Abbildung, 2.17)。命題の中で名前が並ぶその並び方が、現実の中で対象が結びつくその結びつき方を写す。だから「像が真か偽かを知るには、それを現実と比べなければならない」(2.223)——命題だけを見ても真偽は決まらない。詳しくは「像の理論」へ。
2. 前期:語れることの外側と「示すこと」
像の理論には代償がある。像でありうるのは事実を写す命題だけだから、事実の記述でないもの——論理形式そのもの、倫理、価値、生の意味——は、原理的に語れない。「言語のなかに映るものを、言語は描くことができない」(4.121)。「示されうるものは、語られえない」(Was gezeigt werden kann, kann nicht gesagt werden, 4.1212)。
Die Grenzen meiner Sprache bedeuten die Grenzen meiner Welt. (The limits of my language mean the limits of my world. (5.6))
私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する。(5.6)
では『論考』自身の文——「命題は像である」といった文——はどうなるのか。それも事実の記述ではない。ウィトゲンシュタインは正面から認める。私の命題は、それを乗り越えた者が最後に「無意味(unsinnig)」と気づくことで、はしごの役を果たす。「はしごを登りきった者は、それを投げ捨てねばならない」(6.54)。そして最後の一文——
Wovon man nicht sprechen kann, darüber muß man schweigen. (Whereof one cannot speak, thereof one must be silent. (Proposition 7))
語りえぬものについては、沈黙しなければならない。(命題 7)
この線引きの内側と外側は、「言語の限界」で扱う。
3. 転回——「意味を問うな、使い方を見よ」
『探究』は、アウグスティヌス『告白』の一節——子どもは大人が物を指して名を呼ぶのを見て言葉を覚える——の引用から始まる。ウィトゲンシュタインはこれを「人間の言語の本質についての、ある特定の像」と呼ぶ(『探究』1。以下、節番号で示す)。語はすべて物の名であり、意味とはその語が指す対象である——素朴だが根強いこの像を、彼はまず建築現場のことば(「石板!」「柱!」)で揺さぶる。「石板!」は名前なのか命令なのか。場面から切り離せば決まらない。
前期の誤りは、言語の本質を一つ探したことにあった、と後期は診断する。「言語」と呼ばれるものすべてに共通する何かがある、と決めてかかった。だが実際に見れば、共通の本質などない。あるのは、報告し、命令し、冗談を言い、翻訳し、挨拶し、祈り……という無数の活動だ。
4. 後期:言語ゲームと「意味とは使用である」
後期の中心概念が言語ゲーム(Sprachspiel / language-game)。「言語と、それが編み込まれた活動との全体」を指す(§7)。言語を話すことは「ある活動の、ある生活形式(Lebensform / form of life)の一部」だ(§23)。そして有名な定式——
Die Bedeutung eines Wortes ist sein Gebrauch in der Sprache. (The meaning of a word is its use in the language. (§43))
語の意味とは、それが言語のなかで用いられる、その使用である。(§43)
(§43 はこの規定を「すべての場合ではないが、大きな一群の場合について」と限定していることも見落とせない。)語は道具箱の道具にたとえられる(§11)——ハンマー、ペンチ、ものさし、膠。形はばらばら、働きもばらばら。「石板!」が名か命令かは、それがどの言語ゲームで使われているかで決まる。詳しくは「言語ゲームと『意味は使用』」。
5. 後期:家族的類似——「考えるな、見よ」
「ゲーム」に共通する本質は何か。ウィトゲンシュタインは答えず、命じる——
Denk nicht, sondern schau! (Don’t think, but look! (§66))
考えるな、見よ。(§66)
盤上ゲーム、カードゲーム、球技、鬼ごっこ……を実際に見れば、「全員に共通するもの」ではなく「類似、血縁関係(Ähnlichkeiten, Verwandtschaften / similarities, affinities)」が「浮かんでは消える」網が見える。彼はこれを「家族的類似(Familienähnlichkeiten / family resemblances)」と呼ぶ(§67)——一家の顔立ち、体つき、目の色、歩き方が、部分的に重なりながら受け継がれるように。カテゴリーは自然が切り分けた本質ではなく、重なり合う類似で結ばれている。この点はソシュールやサピアの「差異で働く」とも響き合う。詳しくは「家族的類似」。
6. 後期:規則に従うこと、そして私的言語
『探究』後半の難所。数列を「+2」で続けるとき、私は規則に従っている。だが——
„der Regel folgen” ist eine Praxis. (“Following a rule” is a practice. (§202))
「規則に従う」とは、一つの実践である。(§202)
どんな続け方も、解釈次第で規則に「合致させられる」(§201 の paradox)。だから規則を支えるのは、心のなかの解釈ではなく、共同体で繰り返し行われる慣行だ。「だから人は規則に《私的に》従うことはできない」(§202)。
ここから私的言語の議論が来る。自分だけが分かる感覚に自分だけの名をつける言語は可能か。ウィトゲンシュタインの答えは否。有名な比喩——各人が箱を持ち、なかの物を「カブトムシ」と呼ぶ。だれも他人の箱を覗けない。すると「箱のなかの物は言語ゲームにまったく属さない。箱は空でもよいのだ」(§293)。感覚の名づけが意味を持つのは、公共の振る舞いに結びつくときだけだ。詳しくは「規則に従うこと」。
まとめ
| 前期『論理哲学論考』(1921) | 後期『哲学探究』(1953) | |
|---|---|---|
| 言語の単位 | 命題=事実の像 | 発話=言語ゲームの一手 |
| 意味とは | 命題が写す事態、語が指す対象 | 語が使用される、その使い方 |
| 言語の本質 | 唯一——事実を写すこと | ない——家族的類似で結ばれた多様体 |
| 哲学の仕事 | 語りうる限界を内側から引く | 混乱を、日常の用法へ連れ戻して解く |
| 限界の外 | 沈黙(倫理・価値は「示される」) | 「言語がしばらく休みに出ている」ときに問題が生じる |
なぜ今も読まれるか
- 言語哲学の二つの極——「言語は世界を写す」(前期)と「言語は行為である」(後期)は、いまも意味論と語用論の二大方針に対応する。
- 「意味は使用」——語の意味を、指示対象ではなく共同体の実践に置く後期の見方は、日常言語学派、発話行為論、そして用法基盤の言語学へつながる。
- 反・本質主義——「まず定義を探すな、事例を見よ」という家族的類似の方法は、カテゴリー研究(プロトタイプ理論)に直接影響した。
- 私的言語論——「意味は公共的である」というテーゼは、心の哲学と意味論の分水嶺であり続けている。
同時代、言語学の側でもソシュール(1916)とサピア(1921)が「言語の単位は実体ではなく体系のなかの位置だ」という結論に達していた。哲学者ウィトゲンシュタインは、別の道から、意味を「語の内側」から「共同の使用」へと動かした。