フンボルトの本には、二つの「切り離せなさ」がある。言語と思考の切り離せなさ。そして言語と他者の切り離せなさ。
1. 言語は思考を形づくる器官
言語は思考を「伝える」道具ではない。思考を作る器官だ。
Die Sprache ist das bildende Organ des Gedanken. (Language is the formative organ of thought. ドイツ語引用の日本語訳・英訳は L/LAB による。以下同じ。)
言語は思考を形づくる器官である。
そして語は、対象への貼り紙ではない。
Das Wort ist also nicht ein Abdruck des Gegenstandes an sich, sondern des von diesem in der Seele erzeugten Bildes. (The word is thus not an imprint of the object in itself, but of the image produced from it in the soul.)
語はしたがって、対象そのものの刻印ではなく、対象から心のなかに産み出された像の刻印である。
対象 → 心のなかの像 → 語。この中間項(像)があるから、前記事の「象」の例が成り立つ。同じ対象でも、心が捉える像が違えば、別の語になる。思考は言語によって初めて明瞭(deutlich) になる——ぼんやりした思いが、分節された音に結びつくことで、輪郭を得る。音の分節(Articulation)と、思考の分節は、並行している。
2. 「私」は「君」を含んでいる
言語は、孤立した個人の中では完成しない。「すべての語りは対話(Wechselrede)にもとづく」——フンボルトは論文『双数について』(1827)で、この考えを最も鋭く述べた。話すことは、つねに呼びかけ(Anrede) と応答(Erwiederung) からなる。だから「私」という一人称は、それを聞く「君」という二人称を、すでに含んでいる。文法にある双数(二人称の「二人」を特別扱いする形式)は、言語のこの根源的な二元性の名残だ、とフンボルトは見る。ことばは、はじめから他者に向かっている。
3. 自ら活動する——個人と共同体のあいだ
言語は、この二重性のさらに上に立つ。それは個人のものだ——話し手ひとりの精神の働きなしに言語はない。同時にそれは、話し手を超えた民族全体のものだ——一人では言語を作れないし、変えられない。そしてそれは、どちらにも所有されずに自ら活動する(selbstthätig)。民族が言語を形づくると同時に、言語が民族の精神を形づくる。この「話し手には所与として立ちはだかる社会的事実」という側面を、のちにソシュールが「ラング」として、ウィトゲンシュタインが「規則は私的に従えない」として、別の道具で立て直す。
まとめ
| フンボルトの主張 | 言い換え |
|---|---|
| 言語は思考を形づくる器官 | 思考を伝える道具ではなく、思考を作る |
| 語は対象でなく「心に産まれた像」の刻印 | 対象 → 像 → 語(中間項がある) |
| 思考は言語によって初めて明瞭になる | 音の分節と思考の分節は並行 |
| すべての語りは対話にもとづく。「私」は「君」を含む | ことばは根源的に他者へ向かう(『双数について』1827) |
| 言語は個人のものでも共同体のものでもあり、自ら活動する | → ソシュールの「ラング」、ウィトゲンシュタインの「規則」 |
なぜ今も読まれるか
- 言語と思考の一体性——「言語は思考を伝えるだけ」という道具観への、最も古典的な反論の一つ。
- 間主観性——「私は君を含む」というフンボルトの洞察は、20世紀の対話論・語用論(発話行為、直示、ポライトネス)の遠い先駆。
- 社会的事実としての言語——「自ら活動する」言語という捉え方は、ソシュールのラングやウィトゲンシュタインの規則と同じ問題圏にある。