内的言語形式は、言語ごとに概念の切り分けが違うことを見た。では、その違いは思考にどう効くのか。フンボルトの答えが「世界観(Weltansicht)」だ。20世紀の言語相対論(サピア=ウォーフ仮説)の源流である。ただし、しばしば誤解される。原文を丁寧に読む。
1. 言語は一つの「世界観」である
Jede Sprache zieht um die Nation, welcher sie angehört, einen Kreis, aus dem es nur insofern hinauszugehen möglich ist, als man zugleich in einen anderen hinübertritt. (Every language draws about the people to whom it belongs a circle, from which one can escape only by stepping at the same time into the circle of another. ドイツ語引用の日本語訳・英訳は L/LAB による。以下同じ。)
どの言語も、それが属する民族のまわりに一つの円を描く。その円から出ることは、同時に別の言語の円へ踏み入るかぎりにおいてのみ可能である。
なぜ「円」なのか。フンボルトによれば、言語は世界を中立に写す窓ではないからだ——「人間は、主として、いや、感じることも行動することも表象に依存する以上もっぱら、言語が対象を差し出すとおりに、対象とともに生きている」(so, wie die Sprache sie ihm zuführt / “as language brings them to him”)。
2. だが円は牢獄ではない
円の話は、そのすぐ後で開かれる。
Die Erlernung einer fremden Sprache sollte daher die Gewinnung eines neuen Standpunkts in der bisherigen Weltansicht seyn, und ist es in der That bis auf einen gewissen Grad. (The learning of a foreign language should therefore be the gaining of a new standpoint in one’s previous worldview, and to a certain degree it in fact is.)
外国語を学ぶことは、それゆえ、これまでの世界観のなかに新しい立脚点を得ることであるべきだし、実際、ある程度まではそうなっている。
理由をフンボルトは「どの言語も、人類の一部の、概念の織物の全体と表象のしかたを含んでいるから」だと言う。ここで三点に注意したい。①円から出られる——別の円へ移ることによって。②その移動で得るのは「新しい立脚点」であり、思考の入れ替えではない。③前記事で見たとおり、円の下には共通の素材(思考されうるものの世界)がある。だからフンボルトは素朴な言語決定論者ではない。翻訳は「ある程度まで」可能だ、と彼自身が書いている。
3. 「言語=民族の精神」という危うい定式
フンボルトの最も強い定式は、これだ。
Die Sprache ist gleichsam die äusserliche Erscheinung des Geistes der Völker; ihre Sprache ist ihr Geist und ihr Geist ihre Sprache; man kann sich beide nie identisch genug denken. (Language is, as it were, the outward appearance of the spirit of peoples; their language is their spirit and their spirit is their language; one can never think the two identical enough.)
言語は、いわば諸民族の精神の外的な現れである。彼らの言語が彼らの精神であり、彼らの精神が彼らの言語である。両者をどれほど同一と考えても、十分ではない。
この一句は危うい。19〜20世紀に、「国語の精神」「民族の本質」を語る言語ナショナリズムや人種思想へと流用された。フンボルト自身は、言語を人類全体の一つの営みの多様な現れと見ており、優劣の固定を意図してはいない(ただし言語類型の序列づけは残した——別記事)。この流用への解毒剤が、サピア『言語』第10章「言語・人種・文化」である——「人種は、言語と文化の歴史に対して至高に無関心である」。
4. フンボルトからウォーフへ——系譜
- ハイマン・シュタインタール(1850年代)——フンボルトを心理学化し、「内的言語形式」を術語化。
- フランツ・ボアズ(『アメリカ・インディアン諸語ハンドブック』序、1911)——各言語は経験を独自の仕方で「必須の文法カテゴリー」に振り分ける、と示した(サピア第10章の背景)。
- エドワード・サピア(1921)——「言語は、我々が現実をさまざまな形式パターンに構成する能力を反映する」(『言語』を読む)。
- ベンジャミン・ウォーフ(1930〜40年代)——ホピ語の時間表現などを手がかりに「言語相対性の原理」を定式化。「習慣的思考(habitual thought)」という限定つきの主張。
- 別系統で、レオ・ヴァイスゲルバーがドイツ語圏で「母語の世界像(das Weltbild der Muttersprache)」を展開した。
5. 現代の「弱い」言語相対論
20世紀後半、「言語が思考を決定する」という強い主張はほぼ支持を失った。代わりに、色(カイ&ケンプトン、ウィナワー)、空間参照枠(レヴィンソン)、文法性(ボロディツキー)、時間の空間化などで、「母語は、知覚・記憶・判断を、決定はしないがわずかに傾ける」という弱い相対論が、実験で裏づけられている。フンボルトの「立脚点」という比喩は、この現代版にむしろ近い——円は牢獄ではなく、ものの見えかたの癖である。
まとめ
| フンボルトの主張 | 注意点 |
|---|---|
| どの言語も民族のまわりに円を描く=一つの世界観 | 「窓」ではなく「傾き」 |
| 人間は言語が差し出すとおりに対象とともに生きる | ただし円の下に共通の素材がある |
| 外国語を学ぶ=新しい立脚点を得る(翻訳は「ある程度」可能) | 素朴な言語決定論ではない |
| 「言語は民族の精神の外的現れ」 | 言語ナショナリズムへ流用された危うい定式。解毒剤はサピア第10章 |
| → シュタイントール・ボアズ・サピア・ウォーフ/ヴァイスゲルバー | 二つの流れで20世紀へ |
なぜ今も読まれるか
- 言語相対論の原典——「サピア=ウォーフ仮説」と呼ばれるものの根は、サピアでもウォーフでもなく、ここにある。
- 強い/弱いの区別——フンボルト自身が「立脚点」「ある程度」と限定していた事実は、決定論的な誤読への歯止めになる。
- 翻訳論——「円から円へ渡る」という比喩は、翻訳を「不可能」でも「透明」でもなく、立脚点の移動として捉える見方の古典。