サピア『言語』の全体像・前半・後半、そしてドリフトを読んだ。ここは本のもう一つの核——言語・人種・文化は互いに独立している。第9〜10章。
1. 三つの区分は、交差する
人類学は、ある地域を三つの物差し——人種・言語・文化——で地図にする。人種の区分、言語の系統(語族)、文化圏。だが歴史家と人類学者が見いだしたのは、この三つが「平行して分布してはいない」ことだった。サピアいわく、その分布域は「最も当惑させる仕方で交差する(intercross in the most bewildering fashion)」(第10章。引用は原文、日本語は L/LAB 訳。以下同じ)。
人種は混じり合うが、言語はそうはならない。言語は本来の土地をはるかに越えて広がり、新しい人種・新しい文化圏に入り込む。もとの話者に激しく敵対する人々のあいだで生き続けることさえある。
2. 人種は、言語の歴史に無関心である
Race … is supremely indifferent to the history of languages and cultures.
人種は——その唯一理解可能な意味、すなわち生物学的な意味において——言語と文化の歴史に対して至高に無関心である。(第10章)
「スラヴ主義」「アングロサクソン主義」「チュートン主義」「ラテンの天才」といった標語は、言語の分布史という「最も味気ない注釈」の前では、ただの「感傷的な信条」にすぎない。英語はヨーロッパの三つの白人種すべてに話者を持ち、アメリカでは数百万の黒人が英語を唯一の母語とする——「それは、イングランド王のものと同じくらい不可譲に、彼らのものだ」。しかも英語話者の「歴史的中核」であるイングランド人自身、北ドイツ系(アングロサクソン)にノルマン・フランス、スカンジナビア、ケルト、先ケルトが混じった**寄せ集め(amalgam)**である。
この主張は、サピアの師フランツ・ボアズの人類学の言語版にあたる。ボアズは『未開人の心』(1911)で、人種・言語・文化はそれぞれ独立に変化すると論じ、当時の「科学的人種主義」を切り崩した。サピアの第10章は、その議論をことばの側から徹底したものだ。
3. 言語と文化も、因果ではつながっていない
Culture may be defined as what a society does and thinks. Language is a particular how of thought.
文化とは、社会が行い考えることである。言語とは、思考の一つの《やり方(how)》である。(第10章)
文化の変化は「選ばれた経験の目録」——付け足し、失われ、力点が移る——の変化。言語のドリフトは「形式表現」の変化であって、内容にはかかわらない。「あらゆる音・語・具体概念を入れ替えても、言語の内的な現実は少しも変わらない。固定した鋳型に、水でも石膏でも溶けた金でも流し込めるのと同じだ」。
だから、特定の言語形態を「文化発達の何々段階」に結びつける試みは、すべて無駄だ。「正しく理解すれば、そうした対応づけはゴミである」。
4. プラトンは、豚飼いと並んで歩く
When it comes to linguistic form, Plato walks with the Macedonian swineherd, Confucius with the head-hunting savage of Assam.
言語形態に関しては、プラトンはマケドニアの豚飼いと並んで歩き、孔子はアッサムの首狩り人と並んで歩く。(第10章)
単純な言語も複雑な言語も、どんな文化段階でも見つかる。文明の高低と言語形態の複雑さのあいだに相関はない。サピアによれば「すべての言語の潜在的内容は同じ——経験の直観的な科学」であって、二度と同じでないのは顕在的な形式のほうだ。だから——
language can no more flow from race as such than can the sonnet form.
言語が人種そのものから流れ出ることは、ソネットの形式が人種から流れ出ないのと同じくらい、ありえない。(第10章)
言語の「気質」による説明も、サピアは退ける。言語の形態が国民的気質とつながっている証拠はない。言語のドリフトは「話者の感情や心情とは無関係に、歴史的な前例が定めた水路を容赦なく流れる——風景の湿り気に川の流れが無関係であるように」。
5. 語彙は文化を映す——だが、辞書は言語ではない
もちろん語彙は文化を映す。「セオソフィーを知らない社会は、その名を持つ必要がない」。馬を見たことのない人々は、馬を知ったとき、その語を作るか借りるしかない。「語彙が、その言語の目的に多かれ少なかれ忠実に文化を映すという意味では、言語の歴史と文化の歴史が平行して進むのは確かだ」。だが、これは「表面的で外在的な平行」にすぎない。
The linguistic student should never make the mistake of identifying a language with its dictionary.
言語学徒は、言語をその辞書と同一視する過ちを、決して犯してはならない。(第10章)
6. 一致する例は、歴史の偶然
エスキモーやブッシュマンのように、人種・言語・文化の境界がよく一致する例もある。だがそれは「三者のあいだの内在的な心理的関係」ではなく、「容易に理解できる歴史的な連関」——長く孤立していた集団だから、三つが揃って別方向に分かれた、というだけだ。
第9章も同じ方向を指す。言語どうしの影響は主に語彙の借用(英語=ラテン語・フランス語・スカンジナビア語などの層)で起こる。音の借用はあるが、形態(構造)の借用はまれで表層的だ。
Language is probably the most self-contained, the most massively resistant of all social phenomena. It is easier to kill it off than to disintegrate its individual form.
言語はおそらく、あらゆる社会現象のなかで最も自己完結的で、最も massively に抵抗する。個々の形態を分解するより、言語を丸ごと死滅させるほうが簡単だ。(第9章)
まとめ
| サピアの分離論 | |
|---|---|
| 人種・言語・文化は独立変数 | 分布は「最も当惑させる仕方で交差する」 |
| 人種は言語の歴史に無関心 | 「言語が人種から流れ出ることは、ソネットの形式が人種から流れ出ないのと同じ」 |
| 言語と文化も因果でない | 文化=目録の変化/言語=鋳型。「プラトンは豚飼いと並んで歩く」 |
| 語彙は文化を映すが、それは辞書の層 | 「言語=辞書」と混同するな |
| 一致する例は歴史の偶然 | 言語は「最も自己完結的で、最も抵抗する」社会現象 |
そしてサピアは第10章をこう閉じる——「言語は、我々が知る最も massive で包括的な芸術、無意識の世代が作りあげた、山のように大きく作者不明の作品である」。
現代への影響:この二章は、師ボアズの反・科学的人種主義を言語の側から徹底したものであり、20世紀の「国語の精神」「民族の言語的天分」といった言説への、いまも有効な解毒剤になっている。
残りは、音のパターンから音素へ(第3章の深掘り)と、言語と文学(第11章)。全体像は「サピア『言語』を読む」へ。