サピア『言語』の全体像と、前半後半を読んだ。ここからは、この本で最も影響力の大きい一つの考えを深く見る——ドリフト(drift)。第7〜8章。

1. 言語は時間の流れを下る

方言はなぜ生まれるのか。話者一人ひとりのゆらぎは、たえず集団の平均へ均されている。ならば、なぜ差が残るのか。

サピアの答えは、言語は空間に広がっているだけの「静止した絵」ではない、というものだ。

Language moves down time in a current of its own making. It has a drift.

言語は、自らが作りだす流れに乗って、時間を下っていく。言語にはドリフトがある。(第7章。引用は原文、日本語は L/LAB 訳。以下同じ)

横に見る(日常)= 無方向のゆらぎ 生まれては消える 縦に見る(歴史)= 方向を持つドリフト 同じゆらぎでも、累積すると「勾配」になる
個人差を日常の断面で見れば無方向の波。歴史の断面で見ると、そのうち一方向に積み重なるものだけが「ドリフト」として残る。図:L/LAB

2. ドリフトとは何か

日常のゆらぎは「海の波のように、目的もなく前後に動く」ランダムな現象だ。だがドリフトには方向がある。

The drift of a language is constituted by the unconscious selection on the part of its speakers of those individual variations that are cumulative in some special direction.

言語のドリフトとは、話者たちによる、ある特定の方向へ累積していく個人差の、無意識的な選択によって成り立つ。(第7章)

その方向は「おおむね、その言語の過去の歴史から推測できる」。私たちは自分の言語を「ほぼ固定した体系」と感じ、変化は「どの方向にも等しく起こりうる」と思いがちだ。「その感じは誤りである。今後の変化の細部が不確かであることが、かえって、変化の方向がやがて一貫していたと分かることを、いっそう印象的にする」。

3. 「whom」の運命

① 形式の対称性(which/what に目的格がない) ② 疑問詞は不変化・強勢であるべき ③ 語順(目的格は動詞の後ろ) ④ 音のリズム(whom did が重く鈍い) 一つの力に集約 Whom → Who 四つの要因は独立に働くのではなく、「一本の力に導管でまとめられる(canalized)」。 結果は「whom を使うときのわずかなためらい」として心理に現れる。
“Whom did you see?” への微かな抵抗を、サピアは四つの無意識的要因に分解し、それらが一本に集約されると示す。図:L/LAB

サピアの分析は徹底している。英語話者が “Whom did you see?” にほんのわずか抵抗するのは、①which/what/that に目的格がないという形式の非対称 ②疑問詞は不変化で強いほうがいいという感覚 ③目的格は動詞の後ろ、という語順whom did の重く鈍いリズム——この四つが「一本の力に導管でまとめられる」からだ。

It is safe to prophesy that within a couple of hundred years from to-day not even the most learned jurist will be saying “Whom did you see?”

今から二世紀もすれば、最も学識ある法律家でさえ “Whom did you see?” とは言わなくなる、と予言しても安全である。(第7章)

「“Who did you see?” と何のやましさもなく言う無学な民衆のほうが、言語の真のドリフトに対する嗅覚が、その研究者より鋭い」。ただしサピアは慎重にこう付け加える——ドリフトの大まかな方向を知っているだけでは、それがどこへ向かうかは正確には見えない。「各成分の相対的な強さと速さ」まで知る必要がある。

4. 英語の三つの大きなドリフト

統語関係を担うもの——重心の移動 昔(印欧語・古英語) 語の屈折(格語尾) 位置 現代英語 屈折 文中の位置(語順) 格:7 → 4(ゲルマン語)→ 主格・対格の融合 → 「目的格」=対格+与格の混合物 → 所有格は生きた名詞に限定へ he / him は「主格 / 目的格」というより「前動詞形 / 後動詞形」になりつつある。
第7章の骨子。英語の統語の重心が、語の屈折から文中の位置へ、何世紀もかけて移ってきた。図:L/LAB

“whom” の四要因は、それ自体より、言語のもっと大きな傾向の症状として面白い。サピアは三つの大きなドリフトを挙げる。

  1. 主格と目的格の区別の水平化。印欧語の7つの格が、ゲルマン語で4つに減り、古英語で対格と与格が融合し(現代の「目的格」him は古い与格が対格の働きを引き継いだもの)、所有格は「生きた名詞」に限定されつつある(the moon’s phases より the phases of the moonits さえ of it に道を譲りはじめている)。
  2. 文中の位置が統語を担う。形が痩せるにつれ、語順がその働きを引き取った。hehim は「主格/目的格」というより「前動詞形/後動詞形」——my fatherfather mine が所有格の前置形/後置形であるのと同じだ。だから民衆は “it is I” ではなく “it is me” と言う。チョーサーの “it am I” が今と違って響くのは、当時の I がまだ主格として動詞に影響するほど強かったからだ。
  3. 不変化の語へ。「観念と語のあいだの、できるだけ変化のない、単純な対応」を求める傾向。whom の語尾 -m は、疑問詞の強さにとって邪魔でしかない。

ドリフトの怖いところは、行く手にあるものを壊せないときは、意味を洗い流して無害にすることだ。

Where it cannot destroy what lies in its way it renders it innocuous by washing the old significance out of it. It turns its very enemies to its own uses.

ドリフトは、行く手をふさぐものを破壊できないとき、そこから古い意味を洗い流して無害にする。敵さえ自分の用途に変えてしまう。(第7章)

I / me の音の違いが大きすぎて形の水平化は起きない。だが「前動詞/後動詞」「生きている/生きていない」という新しい二つのカテゴリーが、古い格の並びに入り込んでいる。英語は分析的な方向へ進みながらも、中国語のように「純粋な関係概念」へ向かっているわけではない——関係概念の具体性へのこだわりが、最も強力なドリフトよりなお強い。

5. 方言は、独立にドリフトした結果

一つの言語が方言に分かれるのは、個人差そのもののせいではなく、二つ以上の集団が、一緒にではなく別々にドリフトするほど離れたからだ。いったん一地域の言葉が独自にドリフトを始めると、「ほぼ確実に、仲間からますます遠ざかっていく」。

古いギリシャ語の方言がアッティカ方言(コイネー)に均され、そのコイネーがまた新しい方言群に分かれた——「古い方言はたえず消され、新しい方言に場所を譲る」。そしてサピアは念を押す。「方言/言語/語派/語族は、まったく相対的な用語である。視野が広がったり縮んだりするたびに入れ替わる」。現代アイルランド語・英語・イタリア語・ギリシャ語・ロシア語・アルメニア語・ペルシア語・ベンガル語は、遠い過去の一点に収束するドリフトの、現在の終着点にすぎない。

6. 音法則も、ドリフトの一つの公式

英語 ドイツ語 fōt : fōti  (西ゲルマン祖語) fōt : fēt  (古英語) fōt : fēt  (チョーサー) fūt : fīt ; mous : mīs(シェイクスピア) fut : fit ; maus : mais(1900年の英語) fōt : fōti  (西ゲルマン祖語) fuoss : fuossi(古高ドイツ語) fuoss : füesse(中高ドイツ語) fūs : füse ; mous : moize(ルター) fūs : füse ; maus : moize(1900年のドイツ語) それぞれ別々に派生したのに、変化は平行している。 今日の英独の形は、共通の祖形より互いに似ている。
第8章。英語 foot/feet とドイツ語 Fuß/Füße の1500年。独立に派生しながら、共通の「勾配」を引き継いで平行してきた。図:L/LAB(サピアの表を簡略化)

第8章。ある方言・ある時代のなかで、音変化は規則的——例外なく作用する。だがそれは神秘的な「法則」ではない。

Phonetic laws do not work with spontaneous automatism … they are simply a formula for a consummated drift that sets in at a psychologically exposed point and gradually worms its way through a gamut of phonetically analogous forms.

音法則は自動的に働くのではない。……それは、心理的に露出した一点で始まり、音的に似た形の連なりを少しずつ進んでいく、達成されたドリフトの公式にすぎない。(第8章)

英語 foot/feet とドイツ語 Fuß/Füße の1500年を並べると、「その平行は明らかだ。今日の英語とドイツ語の形は、それぞれが独立に派生した西ゲルマン祖形より、互いに似ている」。共通の勾配を引き継いだからだ。そして**類推(analogy)**が、規則が作った不揃いをたえず均し直す。

まとめ

ドリフトの要点
言語は時間の流れを下り、勾配を持つ個人差の「無意識的な選択」が一方向に累積
方向は過去から推測できるが、着地点は成分の強さ・速さ次第「whom は消えるが、いつどう消えるかは別」
ドリフトは壊せないものの意味を洗い流す「敵さえ自分の用途に変える」
方言=集団が独立にドリフトした結果「方言/言語/語族は相対的な用語」
音法則=達成されたドリフトの公式英独の平行、そして類推による再均し

現代への影響:言語変化を外的要因でなく言語内在的な傾向として捉える見方、変化に方向性があるという主張、そして「話者の無意識的選択」に注目する視点は、のちの歴史言語学と社会言語学(変異と変化の研究)の基礎になった。


次は、この本のもう一つの核——言語・人種・文化は別物(第9〜10章)。全体像は「サピア『言語』を読む」へ。