『クラテュロス』は、名前が自然(フュシス)によるのか取り決め(ノモス)によるのかを、未決のまま閉じた(記事 041)。アリストテレスは『命題論』第2章、名詞の定義のなかで、その問いに答える。
Ὄνομα μὲν οὖν ἐστὶ φωνὴ σημαντικὴ κατὰ συνθήκην ἄνευ χρόνου.
名詞とは、取り決めによって何かを意味する声であり、時をふくまない。(ギリシア語引用の日本語訳・英訳は L/LAB による。以下同じ。)
「同じ」と「違う」——意味の連鎖のどこが恣意的か
第1章でアリストテレスは、声と文字が民族ごとに違うことを、はっきり述べていた。
Καὶ ὥσπερ οὐδὲ γράμματα πᾶσι τὰ αὐτά, οὐδὲ φωναὶ αἱ αὐταί.
文字がすべての人に同じでないのと同じく、声も同じではない。
だが同じ文で、彼はこうも言う。声と文字が「第一に指し示すもの」——心のうちの印象(παθήματα τῆς ψυχῆς)は万人に同じであり、その印象が写しとるもの(πράγματα)も同じだ、と。つまりアリストテレスにとって、恣意的なのは連鎖の右半分(声・文字)だけで、左半分(概念・もの)は自然で共通なのだ。
この「概念は万人に同じ」という強い前提こそ、後の言語思想が争う点になる。フンボルトは「各言語は一つの世界観だ」と説き、ウォーフは「言語が思考を切り分ける」と論じた。彼らにとって、アリストテレスが自然で共通とみた「心のうちの印象」自体が、言語ごとに違う形をしている。恣意性が意味の全体をおおうかどうか——その問いは、ここから始まる。
自然の記号と、取り決めの記号
「取り決めによって(κατὰ συνθήκην)」という語句を、アリストテレス自身がこう注釈する。
φύσει τῶν ὀνομάτων οὐδέν ἐστιν, ἀλλ᾿ ὅταν γένηται σύμβολον.
名前はどれ一つ自然によって在るのではなく、記号となってはじめて名前になる。
ここに、はっきりした線が引かれる。けものの鳴き声は自然に何かを表わす——しかし名前ではない。名前は、共同体の合意によって「記号となる(γένηται σύμβολον)」もの、つまり人為の産物だ。クラテュロスの「どの物にも自然の正しい名がある」は、こうして退けられる。プラトンの音象徴論(ρ は運動、λ はなめらかさ)も、この定義のもとでは、名前の本質ではなく偶然の飾りになる。
「シュンボロン」という語の選択
アリストテレスは、声をシュンボロン(σύμβολον)と呼ぶ。これは「割り符」を意味する語だ。古代ギリシアでは、契約や客人関係の証しとして、陶片や指輪を二つに割り、当事者が片方ずつ持った。合わせて一致すれば、取り決めの当事者だとわかる——約束によってのみ意味をもつ、そろいの片割れ。第1章の別の箇所で、彼は同じものをセメイオン(σημεῖον、しるし・徴候)とも呼ぶが、こちらは煙が火のしるしであるような自然の徴にも使う語だ。後古代のアンモニオスとボエティウスは、この二語をきっちり分け、「取り決めによるしるし(signum ad placitum)」と「自然のしるし(signum naturale)」という対を立てた。アウグスティヌスも『キリスト教の教え』で、人が交わす記号(signa data)と自然の記号(signa naturalia)を区別する。中世の記号論は、この一語の選択の上に立っている。
アリストテレスは「名前」の範囲も厳しく引く。「非‐人間(οὐκ ἄνθρωπος)」は名前ではなく「不定の名(ὄνομα ἀόριστον)」、「フィローンの/フィローンに(属格・与格)」は名前ではなくその格(πτῶσις)——名詞そのものではない、というふうに。
2000年の主流
この一行の判断は、後古代のアンモニオスやボエティウスの注釈を通じて標準学説となり、アラビア語圏(アル=ファーラービー)とラテン語圏(ボエティウス)の両方へ流れ込んだ。中世を通じて「語は恣意的に(ad placitum)意味を課される」という定式で受け継がれる。ロックは『人間知性論』第3巻で「語と観念の結びつきは……まったく任意の課与による」と書く。そして20世紀、ソシュールが「記号の恣意性」を一般言語学の第一原理に据えたとき、彼はアリストテレスが引いたこの線を、体系の中心に引き直していた。
ただし両者はずれてもいる。アリストテレスにとって恣意的なのは声と概念の結びつきだけで、概念のほうは自然で共通だ。ソシュールの新しさは、そこから先にある——記号の値(valeur)は体系の中の差異から生じ、その体系が概念そのものを切り分ける。アリストテレスの記号は「共通の概念に貼るラベル」だが、ソシュールの記号は「概念を作り出す網の目」なのだ。