森鴎外(本名・森林太郎、1862–1922)は小説家である前に、陸軍軍医でドイツ留学帰りの、西洋の学問を日本語に移し替える人だった。その仕事の一つが、これから読む短い文章——「言語の起原」附記(1889)である。

この文章は何か

「言語の起原」という一篇そのものは、鴎外の弟子筋にあたる**江村學人(えむらがくじん)**が書いた。鴎外はそれを自分たちの雑誌に収めるにあたって、末尾に自分の考えを書き足した。冒頭でこう断っている。

此言語起原の一篇は江村學人の草する所なり。予は之を萬年艸に收録するに當りて、一二所思を附記することの必ずしも無用ならざるべきを信ず。

—— 森鴎外「言語の起原」附記(1889)。以下の引用も同じ。

江村の主張はこうだ。赤ん坊の泣き声のような音は、単純なものから複雑なものへ進み、やがて言語の材料になる。彼はいくつかの語を「証拠」として挙げた。鴎外は「これは言語学上、容易ならぬ問題だ」と受けとめ、当時ヨーロッパで戦わされていた言語の起源論を、日本語で手際よく整理してみせる。

間投説(interjectional) ミュラーの渾名「プープー説」 感情の〔叫〕び声 → ことば? 痛い・怖い・欲しい、から漏れる声 例:ああ、おお、うう 擬声説(onomatopoetic) 渾名「バウワウ説」(旧称 wau-wau、撤回) 外界の音の模倣 → ことば? 鳥の声、水の音、打つ音をまねる 例:かっこう、わんわん 鴎外の提案:まず「〔叫〕び声」と「言語の原料」を分けて考えよ。
十九世紀の起源論の二本柱。ミュラーが皮肉をこめて「プープー説」「バウワウ説」と呼んだ。鴎外はこの区別を導入の足場にする。図:L/LAB

鴎外の整理——まず二つに分ける

鴎外がいちばん力を入れるのは、用語の交通整理である。江村は泣き声も物真似も一緒に「言語の原料」と呼んでいた。鴎外はそれを二つに割る。

此研究の便宜上、一應彼〔叫〕聲と言語の原料とを區別し置かんこと或は宜しきを得たるものなるべし。

そのうえで、ドイツの言語学者マックス・ミュラーの用語を借りる——感情の叫びに関する一切を「間投的語原の問題(interjectional)」、物音の模倣に関する部分を「繪聲的語原の問題(onomatopoetisch、=擬声)」と呼び分ける。「繪聲(えせい)」は onomatopoeia の訳語で、「声を絵に描く」の意。鴎外は、この語がギリシア以来意味を変えてきて誤解を招きやすいこと、学者が代わりに「摸聲」「感知」などの語を試したこと、ミュラー自身が間投説を「PAH-PAH-説」、擬声説を「WAU-WAU-説(わんわん説)」と呼んだが、後者は「学者を侮辱するようだ」と難じられて撤回したこと、までていねいに書き添えている。術語の来歴に対するこの神経質さが、翻訳者・鴎外の面目である。

間投説——叫びはことばになるか

では、感情の叫び声(ドイツ語で Schrei)は、そのまま単語の起源になれるのか。鴎外は否定側の論者を三人並べる。

ヘルダー(十八世紀)。叫びをいくらいじっても言語にはならない。言語が始まるには、叫びとは別に、一つの音を取り出して「しるし」にする操作が要る。

〔叫〕聲は奈何に變更すとも、終に言語を成すことなし。別に單音(TON)を得て以て標識(MERKMAL)と爲し、始て言語を成すと。

ヤーコプ・グリム(『グリム童話』の、あの言語学者グリム)。叫びは嗚咽や号泣にはなるが、言語にはならない。言語は**思考とともに、別途「勝ち取られる」**ものだ。

〔叫〕聲は呻吟啼泣(WIMMERN, WEINEN)を成すと雖、終に言語を成さず。言語は別に(思量と倶に)贏ち得らるる(ERWORBEN)者なりと。

ラーツァルス・ガイガー。彼は叫びを二種類に分ける。物を見て恐れや欲から発するのが獣叫(TIERSCHREI)。物を、とりわけ物の動きを見て発し、それが語の起源になるのが語叫(SPRACHSCHREI)

物を視、就中運動を視て發聲し、以て語原を作すものを語〔叫〕と爲し

叫び しるし(Merkmal) 思考・区別 ことば ヘルダー:叫び+「単音を標識に」=言語の始まり グリム:言語は思考とともに「勝ち取られる」 ガイガー:動きを見て出す「語叫」だけが語原になる
否定側の共通点は、叫びと言語のあいだに「しるしをつける・区別する」という別の働きを置くこと。感情の放出だけでは語にならない。図:L/LAB

ママ・パパ説——鴎外はここに与する

では鴎外自身はどう判定するか。江村の言う「泣き声」は、たしかに語の起源にはならないだろう。しかし、と鴎外は続ける。

彼 a, u の音及之と b, p, m, d 等との合音は尋常の〔叫〕聲に非ず。是れ小兒の早く發し得る所の音なり。

母音の a・u と、唇や歯でつくる b・p・m・d の組み合わせ——つまり pa・ba・ma・da のような音節は、痛みや空腹から漏れる叫びとは違う。乳児が構音器官の発達上、早い段階で出せてしまう音である。これを叫びと呼ぶなら「語叫」と呼ぶのが妥当だろう、と。そして、これらの音、とりわけ papa / mama が「自分(親)を指す語」の起源になることは、多くの学者が認めている。鴎外は心理学者ヴントを引く。

WUNDT の書中、父母其子の夙く發する所の音を利用して、己を斥す語と爲すと云へる

つまり——赤ん坊が意味もなく発する pa・ma を、親のほうが拾い上げて「わたし=お父さん/お母さん」という呼び名に固定する。語は子の側の発明ではなく、聞き手の側の採用によって生まれる。

乳児が早く出せる音 a, u + b p m d pa · ma · ba · da まだ意味はない 親が採用して固定 papa / mama = 呼び名 語は子の「発明」ではなく、聞き手(親)の「採用」で生まれる(ヴント) だから papa/mama は世界中の言語で似る——共通祖語の証拠ではなく、 乳児の発達と親の耳という、同じ条件が繰り返し働くから
鴎外が与するのは「ママ・パパ説」。単純な泣き声ではなく、乳児が早期に出せる子音+母音を、親が呼称として採用する。図:L/LAB

擬声説——音をまねるのか、音の「感じ」をまねるのか

もう一方の柱、擬声説(バウワウ説)に入る。「擬声」と言うと、意識して物音をそっくりまねる作業に聞こえる。鴎外はまず極端な例を退ける。十八世紀のティーデマンは、言語を「困りはてた末の、考えてこしらえた発明」とし、音の模倣(Schallnachahmung)をその手段の一つとした。今の学者はむしろ、語源の擬声は故意ではないと考える。シュタインタールの擬声説はこうだ。

繪聲は音響を摸するに非ず、音響の感情を摸するなり

音そのものではなく、その音が呼び起こす感じをまねる。だから視覚や触覚の印象も、感情を介して擬声の圏内に入ってくる。

そしてマックス・ミュラーは、擬声説の適用範囲をぐっと狭める。擬声語はそもそも多くない。グリムの法則(後述)にしたがって語形を遡って検討すると、ふつう擬声語とされる語の大半は、実は擬声起源ではないと分かる。

尋常以て繪聲語と爲す所のもの、概ね皆繪聲に非ざることを知る。其の間ま明に繪聲たるを認むべきものも能く派生語を形づくること少しと。

しかも、はっきり擬声と認められる語も、そこから派生語(動詞・形容詞・抽象名詞…)をうまく作れない。語彙の網の目に編み込まれていかない、というのである。

素朴な擬声観 物音 → そっくり写す → 語(故意) シュタインタール 物音の“感じ” → 写す → 語(故意でない) ミュラーの絞り込み 擬声とされる語 本当に 擬声 グリムの法則で 遡ると大半が脱落 さらに、擬声語は派生語をうまく作れない=語彙に根を張らない
擬声説は「音の模倣」から「音の感情の模倣」へ洗練され、そのうえでミュラーによって適用範囲を狭められる。図:L/LAB

カッコウとニワトリ——具体例で見る

鴎外は江村の挙げた語例のうち、「父・母・食べる」を除けばおおむね擬声の問題に関わる、と言い、とくに鶏(にわとり)の項の語を取り上げる。ただし注意——ドイツ語 KUCKUCK は郭公(カッコウ、学名 Cuculus canorus)であって、鶏(Gallus domesticus)とは別の鳥だ。どちらの名も擬声で、印欧語のなかに二つの系列が見える。

甲:カッコウ系(Cuculus canorus) KOKILA (サンスクリット) KOKKYX (ギリシア) CUCÛLUS (ラテン) KUCKUCK (ドイツ) 乙:ニワトリ系(Gallus domesticus) KUKKUTA (サンスクリット) COCK (英) どちらも「その鳥の鳴き声」を写した名。だが擬声起源でも、 語形は各言語の音法則にしたがって規則的に変化していく。
鳴き声を写した名前でも、いったん語になれば、その後は各言語の規則的な音変化に従う。擬声は語の入口にすぎない。図:L/LAB

最後の警告——語族を無視するな

鴎外は釘を刺して終える。語源をさぐるときは、その言語同士が同じ系統か別系統かを必ず考えよ、と。いわゆる印欧語(原文では「印度日耳曼語」)と日本語と漢語は、ふつう別系統とされる。

異系の言語に語根樣要素の共通あることは、從來學者の之を承認するもの甚だ少し。

別系統の言語のあいだに「語根のような共通要素がある」と唱える説を、認める学者はごく少ない——つまり、系統の違う言語を並べて「音が似ているから同源」とやる語源談義を、鴎外は戒めている。これは十九世紀の比較言語学が苦労して確立した方法上の禁則であり、いまも生きている。

1772ヘルダー 1861–64ミュラー講義 1889鴎外「附記」 1916ソシュール『講義』 「起源はどこか」を問う思弁 ————→ 「体系はどう働くか」を見る科学へ 鴎外の要約は、前者の到達点と限界を冷静に見取った地点に立つ
この「附記」は、ソシュール『一般言語学講義』の四半世紀前。起源をめぐる思弁が出尽くし、言語学が問いを「体系」へ移す直前の見取り図になっている。図:L/LAB

なぜ、いま読む価値があるのか

1889年、鴎外27歳。西洋の言語起源論はほぼ出そろい、そして行き詰まっていた。ヘルダーもグリムも「叫びは言語にならない」と言い、擬声説はミュラーに削られ、残るのは「ママ・パパ説」のような限定的な足がかりだけ。「起源はどこか」という問いそのものが、実証の限界にぶつかっていた

その約四半世紀後、ソシュールは起源の問いをいったん脇に置き、「いま動いている言語の体系はどう働くか」を見る方へ舵を切る(→「ソシュールと、言語学の誕生」「langage・langue・parole」)。鴎外の「附記」は、その転回の直前の景色を、留学帰りの軍医が澄んだ日本語で書きとめたものだ。専門家でなくても、ここから「言語の起源はなぜ難問なのか」がまるごと見える。

用語対応表

原文の訳語対応する原語・渾名いま風に言うと
間投的語原論interjectional/プープー説言語は感情の叫びから始まった、とする説
繪聲的語原論onomatopoetisch/バウワウ説(旧称 wau-wau、撤回)言語は物音の模倣から始まった、とする説
(ママ・パパ説)乳児が早く出せる音を、親が呼び名として採用する
〔叫〕聲Schrei叫び声(原文は「口+斗」の異体字)
標識Merkmalしるし・特徴
語音移動Lautverschiebungグリムの法則(ゲルマン語の子音推移)
印度日耳曼語Indo-Germanic印欧語(インド・ヨーロッパ語族)

同じ本の全体像は「ソシュール『一般言語学講義』の概要」へ。「言語とは何か」の問い自体は「言葉とは?」で扱っている。